敗者復活戦(ランナウェイ):柳ジョージ

柳ジョージ
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この本は、柳ジョージさんの自叙伝です。1979年出版なので、31歳の時に書かれたものです。

1979年は、本牧のキャッチフレーズにもなった曲(歌詞)が生まれました。

「フェンスの向こうのアメリカ」

柳ジョージ&レイニーウッドのALUBUM「YOKOHAMA」に、増田俊郎(ペンネーム”トシ・スミカワ”)さんが作詞しました。

♪ AREA ONEの角を曲がればおふくろのいた店があった
白いハローの子に追われて逃げてきたPXから
今はもう聞こえないおふくろの下手なブルース
俺には高すぎた鉄のフェンス ♪

このフレーズに、”本牧”のすべてが凝縮され表現されているように思えます。

さて、そんな曲を歌っていた柳ジョージさんの著書にも、同じ目次として書かれてあり、こよなく愛した”本牧”に特化して抜粋した一文を、本サイトなりに見てみたいと思います。

「フェンスの向こうにはいつもアメリカの風が吹いていた」から始まります。

例えば……。1960年後半のYOKOHAMA。
港の前の道、公園通りを南に行くと本牧に出る。レストランのようなクラブが何軒かあって、それ以外に何があったかといえば、フェンスだけだった。

この頃の柳ジョージさんは、二十歳前後です。当時のレストラン・クラブと言えば、上の写真から「V.F.W.」、「イタリアン・ガーデン」、後記する「ゴールデン・カップ」、「リキシャルーム」、等があったが、歓楽街でもない街なので、店の数は少なかった。以前、進駐軍専用(日本人は、入れない)のチャブ屋は、存在していたが、1958年2月27日「売春」が法律で禁止され、閉店していた。店の数こそ少ないが、アメリカ軍を対象としていたので日本の飲食店とは全く違う雰囲気が漂っていた。

フェンス-その向こう側はアメリカだった。
米軍のキャンプがあって、そこはたしかに異質な世界だった。そこから吹いてくる風があったんだね。その町にある、なんてことないクラブに行くと、R&B、リズム・アンド・ブルースが流れてた。


AREA ONEにあった「SEASIDE CLUB」日本人もゲストとして入りやすいクラブだった。室内は、イタリアン・ガーデン(通称I・G)。日本では、ビートルズ全盛期で、R&B(リズム・アンド・ブルース)なんて、日本では、まだまだ聞ける場所がなかった時代。

カップスはまだグループ・アンド・アイという名まえで本牧のクラブ”ゴールデン・カップ”に出ていた。やっていたのはR&Bだった。


「グループ・アンド・アイ」というバンドは、1966年に結成され、翌年の1967年に「ザ・ゴールデン・カップス」と改名されている。なので、上記では柳ジョージさんは、二十歳前後と記載したが、18歳の時の様子を書いていた事が分かった。ちなみに、ザ・ゴールデン・カップスのメンバーは、当時・・・

・デイヴ平尾22歳、エディ藩19歳、ルイズルイス加部18歳、ケネス伊東20歳、マモル・マヌー17歳

後の、1969年にブルースロックバンド「パワーハウス」を本牧のCHIBOW、陳信輝、等と結成し、1970年に、柳ジョージさんは、「ザ・ゴールデン・カップス」に加入する事となる。

ナポレオン党 トヨタ-S800

本牧には、ナポレオン党が走っていた。暴走族。
いや、そういってしまうほどチャチじゃなかった。
1960年代の前半に、トヨタ-S800を10数台連ねて走っていたグループがナポレオン党だった。

本牧。
不思議な町だよ。
にぎわっているわけじゃない。店がズラッと並んでるわけじゃない。
港のほうから行けば公園通りをバンド・ホテルを通りこして少し先、見晴橋あたりを右折、細く掘られたトンネルをくぐる。旧電車通りにぶつかる。そこいらあたりから本牧のメインストリート。

メインストリートを真っすぐ行くと、右側にフェンスが見えてくる。本牧キャンプ。そのあたりは両側が桜並木。

柳ジョージさんの辿った道順と、本に登場する場所を分かりやすいように地図にしました。疑似旅行してみて下さい!
「ホテル・ニューグランド」、「バンド・ホテル」、「ゴールデン・カップ」、「イタリアン・ガーデン」、「リキシャ・ルーム」、とエリア1・エリア2のフェンス等

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ゴールデン・カップはそんななかにある。いつだって、東京より半年早い音楽が流れていた。
だだっ広い店じゃないね。すみのほうにカウンターがあって、だいたいはボックス。バンドのためのステージってもんがなくて、メンバーはアンプの上に座ったりしながら演っていた。

カウンターの写真は、イベントで再現されたものですが、ゴールデン・カップの上西オーナーは、「よう、再現されてるわ!」と言ってました。また、アンプの上に座っている写真は、「不良」と言われてましたが、同じく上西オーナーに聞くと「いや~あれは、店が狭くてアンプに乗るしか、しゃ~なかったんよ!」と言っておりました。今も、「ゴールデン・カップ」は営業しており、当時の写真が店内に多数展示してあります。

ゴールデン・カップの2~3軒隣にあるのがイタリアン・ガーデン。通称I・G。階段を地下におりていくと、そこはアメリカ村字本牧という感じ。50年代のアメリカのディスコって、こんな雰囲気だったんじゃないかな。
脚の長いスツールがカウンターに並んで、奥にはまがまがしく赤い、皮のようなビニール張りのソファ。

1962年に、オープンした地下の「イタリアン・ガーデン」。クレイジーケン・バンドの横山剣さんが「伝説の地下室」と命名し、ライブを多数行った。CHIBOWさんも店長をやっていた有名なライブ・ハウス。最後のオーナーは、八木さんで、1996年に閉店してマンションとなる。道路を挟んだ向かいには、イタリアン・ガーデンを継承し「I・G」という店名で、八木さんが現在も営業を続けている。

さて、「敗者復活戦」の抜粋から本牧の色々な、お店を紹介して来ましたが、実際に柳ジョージさんの生活感が出ていて、どの様に過ごしていたかの引用から最後のお店「リキシャ・ルーム」を紹介します。

時間にルーズな女で、また待たせやがってと思いながらも、人を待つ気にさせる。そういう女。
「ジョージ、終わったら会おうよ。1時、I・Gね。じゃあね!」
ウイークエンドの夜、おれは仕事が終わると本牧へ。イタリアン・ガーデン。時間どおりに行っても、たいていいない。ゴールデン・カップへ行って時間をつぶしてからI・Gへ行くと、ポツンとひとりカウンターのすみで待っていたりするんだな。
いつまでたっても姿を現さず、おれもウイスキーを1杯、2杯、3杯……そのうち、もうどうでもよくなって本格的に飲みはじめ、朝になってリキシャ・ルームへ行くと、彼女、そこでコーヒーなんか飲んでいることもあった。
眠そうな顔して「ゴメンね」。それだけ。おれはベーコン・エッグでも食らう。
リキシャ・ルームも変な店だった。客は外人ばかり。店の中はいつでも薄暗い。そのまま真っすぐ入っていくと、真っ白いテーブル・クロスのかかった丸いテーブルが並んでいる。レストランだな。
入口を入って右に曲がるとそこがバー・カウンターになっている。
だいたい一日中やってるみたいなんだ。そこがおかしいよ。夜行けばかならず開いてる。女の子をつれて、ふたりだけでこっそり食事なんていう場合にはぴったりすぎるという雰囲気の店なんだ。
夜中も開いているんだ。本牧の夜はおそいからね。
朝も開いているんだ。もう完全に明るくなってしまった朝という時間に行くと、いかにも朝食風のものを食べさせてくれる。エッグにジュース、トースト。そのくせ、店の中の照明はいつもどおり。ほの暗く、テーブルに置いてあるランプがかったるそうに揺れている。窓がない店なんだ。いつ行っても、真夜中の本牧にひきもどされる。午後の時間まで店を開けていたかどうかまではわからないけど、妙な店だよ。
料理はまあまあウマイものを食わせてくれた。

1961年、リキシャ・ルームがオープンした。四角いピザと真っ暗な店内にキャンドルが灯り、デートでは一番人気だったお店。美空ひばりさんや、石原裕次郎さんなど著名人も含めて東京から大勢が来店していた。

本書引用文から個人的には、柳ジョージさんが本牧で、更に女性との実体験を店名入りで細かく書かれている上記の引用分が大好きだ。それも、自分の思うようにいかない、自由奔放な女性に困惑している状況が素直に書かれている。女性の一言で、イタリアン・ガーデン、ゴールデン・カップ、また、イタリアン・ガーデンに戻ったりしていたり、朝にリキシャ・ルームへ行くと彼女がコーヒーを飲んでいて「ゴメンね」を聞きながら、薄暗い店内でモーニングを食べる。
本牧という街は、本当に不思議な街で、一部の狭い範囲で飲めるし、24時間どこかしらで飲めるような、そんな眠らない街だったと想像ができる。
それにしても、柳ジョージさんは、店内の様子まで細かく描写してるし、心から本牧を愛していたんだと思うと凄く嬉しい。また、本牧のお店からも柳ジョージさんは愛されていたんだと思わされる。

▽本牧通り(中央がイタリアンガーデン)、リキシャルーム

最後に!本牧と言えば、CHIBOWさん。この引用文も好きです。

パワーハウス。
業界では騒がれていたみたいだ。
日本に初めて本格的ブルース・バンドができたとかいわれた。
テレビに出ないかって話もあった。音楽番組だよ。フジテレビかな?
そのとき、『オブ・ラ・ディ・オブ・ラ・ダ』をやってくれという注文がついた。
営業政策だったんじゃないか、レコード会社の。パワーハウスもビートルズと同じ東芝レコードだったからね。
「楽譜見ながらじゃないと、そんなの歌えねぇぜ」といったのは、ボーカルのチー坊だった。好きで吹き込んだレコードじゃないから、楽譜も見ながらじゃないと歌えないよっていったわけ。
ツッパったんだね。そしたらね、
「じゃいいよ、キミたち」降ろされちゃった。

「1960年後半のYOKOHAMA。」から書き始められた柳ジョージさんの回想禄。
日本がグループサウンド最盛期だった頃、すでに本牧では、R&Bというジャンルを取入れ、日本の最先端の音楽シーンを引っ張った2大バンドが存在します。

「ゴールデン・カップス」
「パワー・ハウス」

柳ジョージさんは、その2大バンドに参加して、経験を積み重ね本当に自分のやりたい音楽を追及して行きます。その後の様子が本書では、描かれています。

尚、CHIBOWさんは、現在も本牧に在住し、「ブギー・カフェ」のオーナーとして、また「SKA-9」というバンドで、現役活躍中です。

▽ブギー・カフェ、I・G(イタリアンガーデンの継承店)

最後に、本牧には、まだまだ魅力的なお店が残っています。当時のお話しも聞けたりします。掲載した地図を参考に、柳ジョージさんと本牧の繋がりが少しでも分かって頂ければ幸いです。是非、本牧に遊びにいらして下さいね!

「目次」

・親愛なる友へ/柳ジョージ
(「ランナウェイ」では、”レイ・チャールズ・オン・マイ・マインド”)
・フェンスの向こうのアメリカ
・YOKOHAMAグラフィティ
・ゴールデン・カップス
・ヘビー・ディズ
・ロンドン・1972
・レイニー・ウッド・ブルース
・酔って候
・ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム
・あとがき

柳ジョージ(1979)『敗者復活戦』小学館

柳ジョージ(1983)『ランナウェイ』集英社文庫

コメント

  1. 柳ジョージさんの話は、本牧界隈のbarで今でも色々と聞きます。
    本牧を愛して、そして本牧から愛された、柳ジョージさんを感じます。
    特に、ゴールデンカップの上西さんは、昔の話を沢山してくれますよ!

  2. バーバラ より:

    柳ジョージさんのファンでこの本も買いました。
    ずっと横浜 本牧 横須賀に憧れています。一年に一回は訪れています(^-^)

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