横浜市中区本牧三之谷293(根岸線桜木町駅バス本牧市民公園行本牧三渓園前下車)
生糸貿易商として財をなし、関東大震災後の横浜の復興に尽力した実業家原富太郎は、また美術愛好家としても知られていた。孔雀明王画像(国宝、東京国立博物館所蔵)や木製多宝塔(国重文)をはじめとする古美術の逸品を収集し、横山大観ら近代日本画の創造をめざす若手芸術家を育成した業績は大きい。とくに、三渓園(さんけいえん)の造園は、彼の卓越した芸術への見識と文化遺産への深い造詣をもって日本美の世界を実現したものといえよう。1899(明治32)年に居を野毛山から本牧三之谷に移すと、19haに及ぶ広大な地に池を掘り、関西や鎌倉から寺塔・殿舎・茶室などの逸品を集めて、自然の起伏に巧みに配して造園した。三渓園は、富太郎の雅号の三渓をつけたほど精魂を傾けた名園で、私園ではあるが1906年に広く市民に無料で開放した。その後、戦災で多くの被害を受けたが、昭和28年に財団法人三渓園保勝会が設立され、一般公開と維持管理に当たっている。
園内は、大池を中心とした外苑と、重文の建築が建ち並ぶ内苑とに分かれる。まず内苑からまわってみよう。紀州徳川家の別邸巖出(いわいで)御殿であったといわれる臨春閣(りんしゅんかく)(国重文)は、桂離宮と対比される数奇屋(すきや)風の書院造で、狩野探幽や狩野永徳筆と伝える襖絵(ふすまえ)がある。旧天瑞寺の寿塔の覆堂(おおいどう)(国重文)は、秀吉が母の長寿を祝って建てた桃山初期の建築。ついで、階段を昇ると、家康が再興した伏見城の諸大名控室であったと考えられる月華殿(げっかでん)(国重文)、もと鎌倉建長寺の近くにあった心平寺(しんぺいじ)の地蔵堂を移した天授院(てんじゅいん)(国重文)がある。木々とせせらぎに囲まれた聴秋閣(ちょうしゅかく)(国重文)は、徳川家光が佐久間将監(しょうげん)に命じて京都二条城内に建てさせた二重の桜閣建築で、当時は三笠閣と称した。西本願寺の飛雲閣に似た趣があり、左右の対称を避けたバランスが見事だ。春草蘆(しゅんそうろ)(国重文)は、先の月華殿が宇治の金蔵院(こんぞういん)の客殿であった時に、それに付属していた茶室九窓亭で、織田有楽斎(うらくさい)の作と伝える。三渓記念館では、原三渓の業績や収集した美術工芸品等を展示・紹介している。
外苑に出て大池にそそぐ渓流をさかのぼると、縁切寺として有名な鎌倉東慶寺の仏殿(国重文)がある。屋根は当初の入母屋造(いりもやづくり)から寄棟造(よせむねづくり)に改められているが、禅宗様の仏殿の特色をよく伝えている。隣に岐阜県の白川郷から移築した旧矢箆原家住宅(やのはらけじゅうたく)(国重文)がある。入母屋合掌造(いりもやがっしょうづくり)の建物で、江戸中期の上層農民の生活ぶりがうかがえる。最後に、三渓園の景観の要(かなめ)ともいうべき中央の丘にそびえる旧燈明寺(とうみょうじ)三重塔(国重文)へ。京都府加茂の燈明寺から移されたもので、1457(康正3)年頃の再建とみられる関東最古の塔である。丘陵下には塔よりやや早く建てられたであろう燈明寺本堂(国重文)が移築された。
東京湾に面する丘陵地に造られた三渓園は、海域の石油コンビナートをはじめとする激しい都市化により周囲の景観が失われたが、四季を通じて市民の憩いの地となっており、都市化によりその価値を一層高めつつあるといえよう。
三渓園の東約500m、本牧臨海公園の丘に法隆寺夢殿を摸した三層八角形の八聖殿(はっせいでん)がある。昭和8(1933)年に元内務大臣安達謙蔵(あだちけんぞう)が私費を投じて建造した国民精神修養の道場で、二階講堂にキリスト・ソクラテス・孔子・釈迦(しゃか)・聖徳太子・弘法大師・親鸞(しんらん)・日蓮の八聖人の等身大の彫像がおさめられている。この八聖殿は、昭和12年に横浜市に寄贈され、昭和48年には新たに八聖殿郷土資料館として発足した。市内各地から集められた農具・漁撈具などの民俗資料が展示され、文化財関係を中心とした図書の閲覧室もある。
本牧市民公園から根岸駅方面行バスに乗り不動下で下車し、根岸森林公園へむかう途中の中区根岸旭台11番地に太田家住宅(県重文)がある。茶人として知られた松江藩主松平不昧(ふまい)公の江戸中屋敷と伝える建物で、材料はぜいたくに吟味され、大名の別邸としての十分な格式をそなえた書院造の邸宅であるが公開されていない。
参考 神奈川県の歴史散歩 山川出版社 1996
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