横浜市中区日本大通(根岸線関内駅下車10分)
関内駅から横浜公園をぬけ、わが国最初の近代的都市計画道路の日本大通りを大桟橋方向に行くと、B・C級戦犯を裁いた横浜地方裁判所があり、さらに県庁前には横浜開港資料館がある。同館は昭和56年6月に開館し、日本の開国、横浜開港関係の資料を集め公開展示している。この建物は1931(昭和6)年に建てられ旧イギリス領事館である。
開港資料館の隣りに、噴水を中心として波模様をデザインした石敷きの開港広場がある。その一角に地球を象(かた)どった日米和親条約調印の地(にちべいわしんじょうやくちょういんのち)の石碑がある。1853(嘉永6)年7月、ペリーの率いるアメリカ東インド艦隊の4隻の軍艦が三浦半島沖に姿を現わし、久里浜海岸で開港要求の国書が幕府に手交された。翌年2月、ペリーは再び来航し、開国に関する会談が久良岐郡横浜村字駒形(現県庁付近一帯)で行われた。トイツの画家で、ペリーに同行してきたウィルヘルム=ハイネの石版画などに、応接所の脇に大きな樹木が描かれているが、それは横浜村の漁師達が帰帆の目印とした玉楠(たまくす)の木で開港資料館の中庭にある玉楠はその2台代目である。
1854年3月31日、日米和親条約12ヵ条が調印された。この間、アメリカ側から多数の品物が贈られ、特に電信機と模型の蒸気機関車は日本人を驚かせた。
開港広場にはレンガづくりのマンホールと卵形の断面をした下水管が保存されているが、それは1881(明治14)年から87年にかけて居留地一帯に下水道が整備された時のもので、広場工事中に発見された。
参考 神奈川県の歴史散歩 山川出版社 1996
コメント