外人墓地

横浜の歴史散歩
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横浜市中区山手町(根岸線石川町駅下車15分)

ゲーテ座跡に建てられた岩崎博物館の斜め前に外人墓地(がいじんぼち)の正門がある。門柱にはトーマス=グレーの鎮魂の誌が刻まれている。ペリーが再来航した1854(安政元)年3月6日、軍艦ミシシッピー号のウイリアムズ2等水兵がマストから甲板に転落して死亡した。ペリーは、横須賀市の夏島への埋葬を申し出たが幕府は拒否し、けっきょく、幕府は山手の丘の麓にあった増徳院(関東大震災後、南区平楽に移転)の海が見える境内に埋葬の場所を提供し、3月10日に水兵は埋葬された。ここが現在の外人墓地で、その後居留地の外国人の増加に伴って墓域を拡張し、今日では1.8haの墓域に4200ほどの墓標が立ち並んでいる。ウィリアムズ2等水兵は3ヶ月後に、伊豆下田の玉泉寺のアメリカ人専用墓地に改葬されたが、今日判明している最古の墓は、1859年8月27日、本町付近派の武士に殺害されたロシアの軍人のものである。埋葬者の国籍は40数ヶ国にもなる。

墓地には生麦事件で殺害されたリチャードソンらの犠牲者をはじめ、鉄道建設の父モレル夫妻、絵入り英字新聞『ジャパン=パンチ』を発行したり、高橋由一らに洋画の画法を教えたワーグマン、日本最初の女学校のフェリス女学院の創設者キダー、ビール工場を作ったコープランド、ゲーテ座設立のヘフトら、日本の近代史とかかわりの深い人物が多数眠っている。1994年外国人墓地資料館が開館した。外人墓地の前に山手資料館がある。1909(明治42)年建築の木造西洋館で、当時の建築様式を残している。館内では、幕末から明治期の文化・風俗を示す品々が展示されている。

外人墓地の横の元町公園の前に大谷石の外壁でできている山手聖公会がある。現在の建物は関東大震災後の1931(昭和6)年に再建されたものだが、以前はニコライ堂や鹿鳴館の設計者であるコンドルの設計で、1901年に完成した赤レンガ造、尖頭がそびえるゴシック様式の建物があった。

山手聖公会からさらに進むと山手カトリック教会がある。この教会の前身は、フランス人宣教師ジラールによってホテルニューグランド裏手の山下町80番地に建てられた横浜天主堂(正式名称は聖心聖堂)である。長崎の大浦天主堂より2年早い。人々は耶蘇(やそ)寺と呼び、見物人も多かったという。横浜天主堂は、1906年に現在の山手44番地に移った。双塔がそびえるレンガ造の聖堂は、トンガリ耶蘇と呼ばれて日本人の間でも親しまれた。それも関東大震災で倒壊し、1933年に現在の建物が完成した。現存する鐘やマリア像は横浜天主堂時代からのもので、創設者ジラールは、教会の祭壇左側の壁の中に葬られている。

参考 神奈川県の歴史散歩 山川出版社 1996

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