ゲーテ座跡

横浜の歴史散歩
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横浜市中区山手町254(根岸線石川町駅下車15分)

堀川にかかる歩道橋を渡り、フランス山公園の入口を過ぎ、クリーニング業発祥の地の碑を見ながら谷戸坂を登ると、港の見える丘公園の前に出る。その右手にレンガ外装の建物が見えるが、それが岩崎博物館で服飾の歩みを展示している。その場所が、わが国最初の本格的な劇場であるゲーテ座(Gaiety Theater)の跡である。ゲーテ座のゲーテという語は、英語のgaiety(愉快・陽気」・快活)に由来している。

もともとゲーテ座は、1870(明治3)年12月6日にオランダ人のノールトフーク=ヘフトによって、本町通りに面した横浜居留地68番地(谷戸橋北、現在のテレビ神奈川の裏あたり)に建てられた劇場であった。このゲーテ座は、建坪413㎡、石造平屋造で、ローマの神殿建築を思わせる建物で、内部にはガス灯による照明、換気装置、緞帳(どんちょう)などの設備もあった。1872年11月にゲーテ座はパブリックホールと改称されて各種の催物に利用された。その後、より広いパブリックホールの建設運動がおき、1885(明治18)年4月18日に谷戸坂上の山手256~257番地に地下1階地上2階建でレンガ造、建坪890㎡、350人収容のホールが完成した。これがゲーテ座と呼ばれるようになるのは1908年12月からで、音楽会・演劇・講演など各種の催物に利用された。

当時の観客としては、イギリス人をはじめとする外国人が多かったが、その中にまじって滝廉太郎(たきれんたろう)・坪内逍遥(つぼうちしょうよう)・北村透谷(とうこく)・小山内薫(おさないかおる)・和辻哲郎(わつじてつろう)・佐々木信綱(ささきのぶつな)・芥川竜之介(あくたがわりゅうのすけ)・大仏(おおらぎ)次郎らの顔も見え、ゲーテ座は、明治・大正期のわが国の文化に大きな影響を与えた。

本町通りに建設されたゲーテ座は、1909年10月21日に焼失し、山手のゲーテ座も関東大震災で崩壊してしまった。

ゲーテ座の近くには、昭和12年に建設された、元イギリス総領事公邸である横浜イギリス館や、大仏次郎の自筆原稿や関係資料を展示している大仏次郎記念館がある。

参考 神奈川県の歴史散歩 山川出版社 1996

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