フリーメイソンと本牧

風俗
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前から、メディアで都市伝説として話題になった「フリーメイソン」を改めて、本牧に関連しているか調べてみる事にした。
調べていくと、関連というよりも、かなり本牧とフリーメイソンには、深いつながりがあることが分かってきた。

そもそもフリーメイソンとは、中世英国の石工組合から始まっている。その後、世界的な組織となり各国でロッジ(支部)が作られ現在では、会員の総数が数百万人を超えているとも言われ、各国の大物政治家や財界人や軍人が入会していること、また勧誘活動をしないどころか外部に情報を出さない為、真相がつかめず特に日本のメディアでは世界を支配する秘密結社などと騒がれている。フリーメイソンの詳しいことは、各々で調べてみて下さい。

さて、今回は、そのフリーメイソンと本牧の関連を綴ります。

話は、1853年(嘉永6年)の黒船来航時代までさかのぼる。

1854年2月13日(嘉永7年1月16日)本牧沖にペリー提督が黒船で現れ、3月31日(嘉永7年3月3日)日米和親条約(神奈川条約)が結ばれた。この間に、ペリーが八王子鼻の崖に文字を残したことは、以前の「横浜遊郭」でも書きました。
実は、そのペリー提督は、1819年に、ニューヨークの「ホーランド・ロッジ No.8」でフリーメイソンに入会していた。オランダ系米国人が18世紀に設立したロッジで、ジョージ・ワシントンも、そこの会員だった。

何と、ペリー提督はフリーメイソンだった!

1859年7月1日(安政6年6月2日)横浜港は開港した。しかし、開港と同時に攘夷派による外国人襲撃事件が多発してる中、ついに生麦事件が起きる。それをきっかけに、1863年(文久3年)フランスは海兵隊を横浜の山手186番(現在のフランス山)に駐屯を開始させ、翌年の1864年(文久4年)には、イギリスの第20連隊が山手115番から山手116番(現在のイギリス館のあたりから岩崎博物館にかけて)に駐屯を開始した。上陸したイギリスの軍人にフリーメイソンが複数人おり軍隊内で「スフィンクス・ロッジ No.263」を設立し、1865年(慶応元年)1月27日に最初の集会を開いた。これが、日本における最初のフリーメイソンの集会だった。

イギリス館(港のみえる丘公園)で、日本初のフリーメイソンの集会が行われた!

「スフィンクス・ロッジNo.263」は、軍人の一時的(撤退と共に移動する為)なロッジだった為、日本で長期間活動する為に横浜在住の民間人(外人)のメイソン達は、1866年(慶応2年)に自分たちの「横浜ロッジ No.1092」を設立し6月26日に最初の定例会を開催した。

フリーメイソンが、日本で初めて設置した日本ロッジは、横浜だった!

その後、日本国内には、この他に8ヶ所の日本ロッジを設立した。(横浜には、「東方の星 No.640」、「東洋の印章ロッジ No.304」、「横浜支部」、「オテントウサマロッジ No. 1263」)しかし、1899年(明治32年)になると治外法権が廃止されるが、日本政府は日本人を会員としないこと、あまり派手な活動を行わないことを条件に日本国内におけるフリーメイソンの活動を認めた。当然だが、フリーメイソンの会員は外国人のみで、日本人の会員は、いなかった。
しかし、1937年(昭和12年)に日中戦争が始まり、フリーメイソンの締め付けが強化され、1940年(昭和15年)頃から反メイスン運動は厳しさを増し、日本国内の全てのロッジは活動を中止せざるを得なくなった。
第二次世界対戦の開戦前には、多くのフリーメイソンは帰国し、資産は日本に押収された。真珠湾攻撃の朝、日本に残った横浜ロッジに所属していた人物の元に私服警官隊が訪れ逮捕された。警察は、フリーメイソンを外国諜報機関と疑い1年以上拘束していた。

そして、1945年(昭和20年)8月15日終戦を迎える事になる。マッカーサーは、降伏文書の調印に先立つ1945年8月30日に専用機「バターン号」で神奈川県の厚木海軍飛行場に到着した。

▽マッカーサーは日本側の出迎えを断り、すぐ横浜に向かう。

出典:米国国立公文館所蔵

【ホテルニューグランドのパンフレットから】

厚木飛行場に降り立ったマッカーサー元帥。彼は「どこへ」と聞かれると、「ホテルニューグランドへ」と答えたと言います。マッカーサー元帥は戦争前から日本を5回訪れた経験があり、その際、当ホテルに2度も宿泊した経験があったのです。ジーン夫人との新婚旅行もホテルニューグランドでした。よほど心に残る、お気に入りのホテルだったのでしょう。マッカーサー元帥は声明文朗読の後、すぐさま乗用車に乗り込み、まっすぐホテルニューグランドを目指しました。

同じく、1945年(昭和20年)8月30日にアメリカ陸軍第八軍司令官のアイケルバーガーも日本占領の為、進駐し横浜税関本庁舎に第八司令部を設置した。

▽厚木飛行場に降り立ったアイケルバーガー米第8軍司令官

出典:米国国立公文館所蔵

▽第8軍司令部が置かれた横浜税関。星条旗が掲げられ、第8軍の看板が建っている。

出典:写真:米国国立公文館所蔵

▽二人が日本に到着して向かった場所と、フリーメイソンのロッジの位置関係は次の地図の通り。

▽写真:ファーイースト・ロッジ No. 1
【1】Yamashitacho 170 1869-1890

【2】Yamashitacho 61 1890-1923
【3】Yamatecho 3 1927-1985

【4】Yamatecho 250 1986-2002

もうお分かりの通り、GHQ最高司令官のマッカーサーと米第八軍司令官のアイケルバーガーは、フリーメイソンだった!
(当時のGHQや第八軍には多くのフリーメイソンの会員がいた)

「ダグラス・マッカーサー」=会員番号367781、第三十三階位、1936年1月17日フィリピン・マニラにて入会する。
「ロバート・アイケルバーガ」=フィリピン奪還後、レイテ島の米軍はウェイファーラー・クラブというフリーメイソン組織を発足させた。

この二人は、フィリピンで軍事行動を共にしており、横浜で再会した。そして、フリーメイソンのロッジ近距離内で、一緒に占領活動を行ったのである。

▽進駐式典での、マッカーサーとアイケルバーガー

出典:米国国立公文館所蔵

進駐から二週間後、第八軍の若い兵士(フリーメイソン)が中区山手三番地を宿舎に割り当てられる。到着すると空き家であり散乱している中に、フリーメイソンの書類を発見し、その建屋は、ロッジだったことが判明し上官に報告した。GHQは、日本に押収されたロッジの資産目録を入手し、直ちに資産返還を命じた。また、1946年3月14日には、第八軍のアイケルバーガーが、横浜市中区のロッジを視察した。そこのロッジは、日本に押収され日本人の管理人が住んでいたが退去させ4月には、「東方の星 No.640」が活動を開始した。

そして、1945年(昭和20年)9月2日に戦艦ミズーリの甲板上で降伏文書調印式が行われた。その戦艦ミズーリが停泊した場所は、1853年(嘉永6年)にペリー提督が黒船を停泊させた場所だった。更に、戦艦ミズーリの甲板には2つの星条旗が飾られていて、1枚は真珠湾攻撃時にホワイトハウスに飾られていた現物(48州の星が描かれた星条旗)、もう1枚はペリー提督が黒船に掲げていた現物(31州の星が描かれた星条旗)だった。また、準備されたペンも当時のペリー提督が使用していたものと同じタイプのペンだった。しかし、日本側の代表者、重光葵大臣は、そのペンを使わず秘書官のペンでサインをした。

▽ハワイ真珠湾の「戦艦ミズーリ博物館」に現在も展示されているペリー提督の星条旗

占領下の日本において、フリーメイソン会員であったマッカーサーは民主主義精神を基本とするフリーメイソンの理念を積極的に奨励した。その結果、1950年(昭和25年)には、日本で初めて5名の国会議員を含む7人の日本人が入会した。

1951年(昭和26年)4月16日。ダグラス・マッカーサーは、20万人もの日本人に見送られ、日本を離れた。

【まとめ】
1854年 ペリー提督が本牧に来て日米和親条約同日に八王子鼻に文字を残す。
1859年 横浜を開港して、その後イギリス軍(フリーメイソン活動開始)が来る。
1866年 日本初のフリーメイソンロッジ「横浜ロッジ No.1092」が設立される。
1935年 マッカーサーは、フィリピン軍の軍事顧問に就任した。
1936年 マッカーサーは、フィリピン・マニラで、フリーメイソンに入会する。
1937年 日中戦争が始まり日本国内でのフリーメイソンの活動を中止する。
1942年 日本軍がフィリピンを占領しフリーメイソンの活動が出来なくなった。
1943年 マッカーサーは、「私は戻って来る」と言いフィリピンを撤退した。
1944年 米第八軍は、フィリピンで日本軍に勝戦し、アメリカの植民地となった。
1945年 マッカーサーは、GHQとしてニューグランドに宿泊する。
1945年 日本国内のフリーメイソンロッジを復活させる。
1950年 日本人が初めてフリーメイソンに入会した。

【最後に】
この様に、日本は戦争によって国内はもちろん、フィリピンのフリーメイソンの活動を停止し結果的に、マッカーサーの知人であるフリーメイソンも多数死傷していた。逆に、マッカーサーは、フィリピンや日本においてまで、フリーメイソンの活動を再開していた。最後は、戦艦ミズーリでの調印式で、黒船ペリー提督による開港で日本のフリーメイソンが広がっていった事への敬意と日本への復讐や屈辱を示したのかも知れない。

1949年7月29日 マッカーサーからワシントンのフリーメイソン最大組織に送った文面には、こう書かれてる。

「降伏後の日本において、革新的メイスン復興は占領の強力な精神的砦の一つとなった。キリスト教、民主主義そしてメイスンの不変の教訓は占領政策の基本哲学である。日本のスコテッシュ・ライトがメイスンの伝統的役割を果たしている事に深い満足を覚える」

戦後の日本復旧に向けて、マッカーサーいやフリーメイソンの思想が入り込んだことは間違いないと思う。
本内容では、触れませんでしたが、2002年以降の横浜のロッジは、存在しており、マッカーサーを名誉会員として直筆入りの写真が飾られています。

何と、現在(2015年)の横浜ロッジは・・・「本牧」にあった!

▽写真:ファーイースト・ロッジ No. 1(横浜)


そう、1854年にフリーメイソンのペリー提督が本牧に来て、2015年の現在は、本牧でフリーメイソンが活動しているのである。

某番組だったらこう言うんでしょうね?

「信じるか、信じないかは、あなた次第!」

【参考】1945年日本占領―フリーメイスン機密文書が明かす対日戦略

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