本牧十二天緑地:2015.2.5開園

歴史
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「本牧十二天緑地のあらまし」
この緑地は、米軍から国に返還された後に、地域の方々から保全のご要望を受け、横浜市が国から土地を無償で借り受けるなどして、平成27(2015)年に都市緑地として公開されました。もともと海岸線にあった崖や貴重な十二天の森、当時の風景を模した広場で、次世代へ歴史が語り継がれるよう望まれます。

▽歴史資料ボードが並ぶ(前面:背面)

「本牧十二天緑地」(中区本牧十二天2の1)は、総面積約6700平方メートル。約1千平方メートルを広場ゾーン、約5700平方メートルは中区の貴重な保存樹林として周囲をフェンスで囲み立入禁止としている。中区内73番目の公園。
昔、十二天が本牧地域の伝統行事「お馬流し」の出発地であったことから、広場ゾーンは、護岸風の石積みなどを設け海岸をイメージ。海原を模したグレーの舗装地の部分には、お馬流しの「舟型」ベンチも設置されている。

「マンダリン・ブラフ」
かつて本牧の海に突き出た十二天の崖は、黒船のペリー提督の海図によると「マンダリン・ブラフ」と名付けられています。日本来航時、横浜周辺の水深を測量した艦隊は十二天の黄色い崖をみて、その色から「Mandarin bluff」(みかん色の崖)と呼び、当時はるばる海を渡ってきた船はこの崖を航行の目印としていました。

「本牧十二天の樹木」
本牧十二天の森は、昔はクロマツが中心でしたが、現在はタブノキが多く見られます。クロマツは「江戸名所図会」によれば「本牧の塙にあり、(中略)巌頭数株の松樹鬱蒼として栄茂せり」と記され、以前にあった十二天にいたる松並木もふくめて本牧十二天の風光明媚な景観を形づくっていたようです。

「本牧十二天の歴史」
本牧十二天緑地がある本牧の地は、鎌倉時代は「平子の郷」、小田原北条市の時代には「本牧郷」の一部でした。やがて江戸期に入ると本牧本郷村と呼ばれました。当時は外国貿易のお金の代わりになるほど大切にされた「いりこ」の生産と内湾を航行する廻船の湊としてにぎわっていた、人口二千人ほどの漁村でした。※「いりこ」とは、ナマコのはらわたを取り除きゆでて干したものです。
【絵】「加奈川横浜二十八景之内」、「東海道五拾三次之内神奈川台之景」
【地図】「内湾沿岸町村絵図(部分)」、「明治14(1881)年」、「明治39(1906)年」、「大正11(1922)年」、「昭和6(1931)年」、「昭和25・27(1950・1952)年」、「平成5(1993)年」

「各所図から[江戸後期~明治後期]」
本牧本郷村には、通称「本牧六ヶ村」と言われた「間門、牛込、原、宮原、箕輪、台」の六つの集落があり、「十二天社」は村の惣鎮守であったことが古い歴史書に記されています。伊能忠敬が日本国中を測量し回り終えた江戸後期には、人々の遊覧が盛んになり、各所図(絵)に十二天の地がたびたび登場し、それは明治まで続きました。
【絵】「本牧神社」、「本牧十二天社」、「本牧吾妻権現宮」、「本牧の岬より上総国木更津を見渡すの図なり」、「本牧村より浦川口上総の加納山遠見の景色なり」、「本牧待月」、「本牧晴嵐」
【地図】「大日本沿海興地全図(伊能大図部分)」

「黒船来航と横浜開港[江戸後期~明治初期]」
嘉永六(1853)年の黒船の来航と、それに続く安政六(1859)年の横浜開港は、本牧にも大きな変化をもたらしました。本牧の八王子山と十二天山は、沿岸防備のために熊本藩が、後に鳥取藩が守りを固める場所になりました。開港後、十二天の地には遊歩道が通じ、外国人がピクニックや海水浴に訪れるようになりました。
【地図】「江戸内海西岸海図(部分)」、「鳥取藩横浜本牧御固絵図」、「米艦隊神奈川沖碇泊並海岸警固図」、「新鐫横浜全図 MAP OF YOKOHAMA(部分)」
【絵】「米人本牧鼻に切り付けたる文字(瓦版)」、「フレガット蒸気船スエスクハンナ」、「横浜風景一覧(部分)」、「東海道名所之内横浜風景(部分)」

「写真にみる本牧十二天の地[明治時代]」
十二天の森に抱かれた「十二天社」は、明治初年の神仏分離により、「本牧神社」となりました。神社の隣には茶屋もできました。変わらず風光明媚な十二天の浜辺は、潮干狩りや海水浴の地でした。明治四十四(1911)年の路面電車の本牧延伸によって住宅も増え、小説家谷崎潤一郎も近くに住んでいました。
【絵】「仏蘭西」、「カメラを抱えるベアト」
【写真】「本牧十二天の鳥居と神殿」、「本牧神社の鳥居から海上を望む」、「本牧神社」、「本牧十二天の茶屋」、「本牧神社鳥居前より宮原海岸を望む」、「本牧神社の参道」、「本牧十二天の茶屋」、「十二天境内からの眺め」、「本牧十二天の本牧神社」、「横浜本牧十二天」、「本牧十二天の海岸」、「村社本牧神社」、「北方村から見る本牧十二天」、「本牧十二天の海岸」

「戦災・接収・街づくり[昭和初期~現代]」
関東大震災後の復興期に多くの人々が移り住み始めた本牧は、第二次世界大戦末期の空襲で焼け野原となり、米軍の接収によって十二天の地は人々の住む地域と隔てられました。やがて十二天の海も埋立てられました。昭和五十七年(1982)には接収地が返還され、それから新本牧地区の街づくりが始まりました。
【地図】「昭和39(1964)年」、「横浜空襲羅災地図」、「新本牧地区の設計図(部分)」、「埋立前の本牧」、「完成した本牧埠頭」、「本牧十二天緑地整備図」
【写真】「関東大震災後の竣工したばかりの新山下と小港間の市道」、「第二次世界大戦の空爆による本牧の焼け跡」、「接収中の十二天」、「接収中の本牧の米軍住宅」、「十二天付近より南東部」

「本牧神社のお馬流し[昭和初期~現代]」
本牧神社は由緒書では源頼朝公から厨子が奉納されたとあり平安時代の創建であったことがうかがわれます。米軍の接収による本牧町二丁目への遷座の後、平成五(1993)年に本牧和田に鎮座されました。茅で作られたお馬さま六体に本牧中の災いを託して海に流す「お馬流し」は、永禄九(1566)年から現在まで続いています。
【写真】「祭礼船の出船を見送る人々」、「昭和の十二天社頭 奥から北原、原南、新町、八王子の祭礼船」、「埋立前最後の木造船によるお馬流しを行った原の人々」、
「頭上奉戴にてのお馬迎え-①」、「本牧町二丁目の頃の本牧神社、例祭当日のご神前-②」、「お馬流しのため御神殿を出るお馬送り-③」、「お馬奉戴車による町内の巡幸供奉-④」、「本牧漁港でのお馬取り-➄」、「お馬さまを「せめ」の後、祭礼船に積み込む-⑥」、「修理復興となった原の木造祭礼船によるお馬流し-⑦」、「流したあとの陸に向かっての力漕-⑧」、「浅瀬に近づき櫂さしが始まる-⑨」

コメント

  1. 山田 様 コメントありがとうございます。
    確かに、当時の賑わっていた本牧十二天社を思えば、ガッカリする規模だと思います。とは、いいましても本牧住民にとっては、大切な場所である為、売却されてしまうところを緑地として何とか保存出来ただけでも嬉しく思いました。昔のような海原が見えないのは残念ですが、山も綺麗に整備され早く入れるようになればと思っています。

    【本牧十二天の丘は保全】
    https://www.honmoku.net/jyunitenhozen/

  2. 山田 より:

    十二天緑地ができたと聞いて、先日行ってきました。
    残念ながら、ガッカリしました。
    児童公園に、6枚のボードがあるだけという感じで、緑地という割には、緑地も少なく・・・。
    ボードの中にあった江戸時代の写真と見比べてみますと、
    グレーの舗装地は海原を模したとありますが、似ても似つかぬもので、そもそも模すのは無理があるのではと思いました。
    十二天という特徴のある地名だけに、十二天の神様も登場してほしかったです。

  3. 1946年の接収直後は、まだ埋立されていません。
    しかし、十二天は接収地にあり、本牧神社も本牧町二丁目に仮遷座しました。
    https://www.honmoku.net/honmokumap/
    実際に、埋立が開始されたのは、1959年です。
    Web以外ですと、私は横浜中図書館で写真を閲覧しています。

  4. 押田  より:

    大変、感動しました。昨年の夏にフェンス越しに見に行き、ガッカリしていました。

    戦後、接収された後、十二天の周りの浜は、いつ埋め立てしたのですか?

    その後、十二天の周りは米軍住宅ですね?  教えて下さい。

    ウェブ以外に、本牧の浜の写真は、何処へ行けば見れるのですか?

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