チャブ屋(3)

チャブ屋
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チャブ屋の戦前から戦後の間に慰安所が存在しています。

【敗戦前後の神奈川】

1945年
・8月14日 横浜市役所で「婦女子の避難について」を検討
・8月15日 終戦日
・8月16日 横浜市は女子職員に三ヶ月分の給料を与えて解雇
・8月23日 神奈川県は「婦女子はできるだけ避難せよ」と回覧し
新聞等では「日本婦人として外国軍に隙を見せぬこと」、
「ふしだらな服装を慎み、人前で胸を露にしないこと」と知らせた。
・8月30日 マッカーサーが到着し、第八軍が横浜に進駐した。

その一方で、「善良な婦女子を守るために」と以下の対策を講じた。

1945年
・8月18日 「進駐軍特殊慰安施設設備について用意されたし」という
無電を受け神奈川県は警察部保安課が取組む。
・8月21日 横浜市内の公娼・私娼業者を保安課に招集し協力を依頼。
・8月22日 バンドホテルを計画したが接収の為、変更となる。
・8月25日 中区山下町の「互楽荘」を借用し準備を開始。
・8月27日 横浜本牧・大丸谷・真金町・曙町で共同経営方針決定。
・8月28日 慰安婦が、「互楽荘」に合宿をはじめる。
・8月30日 マッカーサーが到着し、第八軍が横浜に進駐した。
・8月31日 オープン前日に100人を超える兵士が銃を持ち蹂躙した。
・9月 1日 オープン。何千という兵隊が「互楽荘」に列をなした。
・9月 2日 慰安婦、兵隊、MPなどで射殺事件となり一週間で閉鎖。
共同経営から、それぞれの地区で営業するよう指示。
・9月末日 県下で23ヶ所、従業婦852人となる。

1946年
・1月21日 「日本における公娼廃止に関する件」により私娼へ転換。
・2月20日 公娼制度関係法規廃止

敗戦直後、政府が命令し警視庁と飲食組合で「特殊慰安施設協会」
後の「RAA」(Recreartion & Amusement Association)を作った。
RAAは慰安婦募集の為、銀座に大看板を出したり新聞広告も出した。
内容は「新日本女性の率先として衣食住を全て支給する」ものだった。
慰安婦にされると知らずに応募した女性も多く、また強姦され自暴自棄
になった女性や家や家族を失った女性が慰安婦になった。
素人の生娘も多く更に1日に最低15人の外人兵士を相手にした為、
病気になったり、気がちがったり、自殺などの女性も大勢いた。

しかし、このRAAを解散させたのは性病の蔓延とアメリカ女性だった。

このように敗戦後7ヶ月間、占領軍の為に日本が用意した慰安施設は
「ヘルム・ハウス」と呼ばれ存在した。

【互楽荘】

写真は、「YOKOHAMA LIGHTHOUSE」様から引用させて頂きました。

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