横浜市中区北仲通5(根岸線桜木町駅下車5分)
県立歴史博物館から馬車道を海岸の方へ進むと横浜市第二合同庁舎(もと横浜生糸検査所)がある。その構内の本町通り側角「日刊新聞発祥の地」(にっかんしんぶんはっしょうのち)の碑があったが、今は合同庁舎の倉庫に眠っている。
1870(明治3)年12月8日、横浜活版社で印刷された「横浜毎日新聞」が創刊された。そして、「當十二日より毎日摺リ出す」と記してある(12月12日に「横浜新聞」が出され、それが翌年4月15日に「横浜毎日新聞」と改題されたと推定されていたのでこの碑にも12日としてあるが、12月8日付の創刊号が発見された)。
当時の神奈川県知事の井関盛艮(もりとめ)は対外関係や内地事情を知るため新聞の必要性を考えていた。ちょうど長崎のオランダ通訳本木昌造が鉛活字に成功したということを聞き、これを用いて新聞の発行を実現しようとした。本木昌造は門人の陽其二(ようそのじ)、上原鶴寿に活字及び印刷機一式をもたせて横浜に派遣したのであった。井関知事は、かつて外国図書の検閲管をしていた子安峻(こやすたかし)を編集人に招いて「横浜毎日新聞」発刊をすすめたのである。
紙面の内容は外国船の出入や貿易品など貿易に関する情報を中心に、両替相場から天候に至るまで多様であった。また広告が多くを占め、新聞の経営は購読料より広告料の収入によったという。やがて横浜の豪商原善三郎・茂木惣兵衛らの協力を得て業務を拡張し、島田豊寛(とよひろ)を社長とし、1873(明治6)年には妻木頼矩(つまきよりのり)が編集長となり、その後島田三郎(島田豊寛の養子)、仮名垣魯文(かながきろぶん)が文章方(記者)となった。のちには肥塚龍(こえづかりゅう)らも入社し、自由民権など世の中の事を論じ、1875年に新聞紙条例などが制定されたが、それ以前にも政府から発売禁止や禁獄の憂き目にあうなど活発な活動をしていた。
横浜は貿易港として発展したが、政治・経済・文化の中心としての東京の発展は著しく、新聞も「東京日々新聞」「朝野新聞」「郵便報知新聞」などが発刊された。「横浜毎日新聞」も大新聞として発展するには東京に進出することと考え、島田三郎は沼間守一(ぬまもりかず)と相談して出資者の了解を得て、1879年11月18日、2690号をもって発行所を東京に移し、沼間守一を社長に迎えた。紙名は「東京横浜毎日新聞」と改められ東京における有力紙として重きをなした。ただ「横浜」の文字は残ったが、もはや横浜の新聞ではなくなってしまった。
参考 神奈川県の歴史散歩 山川出版社 1996
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