横浜公園

横浜の歴史散歩
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横浜市中区常磐町(根岸線関内駅下車2分)

関内駅を降りると横浜市庁舎前に大きなすり鉢のような横浜スタジアムがある。この一帯が横浜公園(よこはまこうえん)である。日本大通り寄りの樹木に囲まれた中に、横浜公園の由来を刻んだ石碑がある。それによると1876(明治9)年開園で、わが国最初の西洋式公園であると記している。しかし、わが国における西洋式公園のはじめは、山手町にある山手公園(やまてこうえん)で1871年の開園である。

横浜公園一帯は、大田屋新田の一部で湿地帯であった。開園以前には、1859(安政6)年11月以来港崎遊郭(みよざきゆうかく)があった。ここには遊女500人ほどがおり一大歓楽街を成し、特に異人揚屋(あげや)であった岩亀楼(がんきろう)は有名で、その建物は蜃気楼(しんきろう)か竜宮城かといわれて見物人が絶えなかったという。岩亀楼にあった石燈籠が、公園内の日本式庭園の一角にある。港崎遊郭は、1866(慶応2)年11月26日、関内一帯を焼き尽した豚屋火事によって焼失した。その後、幕府と外国公司団との間で居留地改造計画が協議され、その結果、公の遊園を作ることになり、1874年に起工し1876年に完成した。

公園は「公園」とか、外国人と日本人の共同公園という意味で「彼我(ひが)公園」とか呼ばれた。しかし、利用するのは外国人ばかりであったという。西洋花火大会・国際親善野球試合・メーデーの集会などが、わが国で最初に行われたのもこの公園であった。

参考 神奈川県の歴史散歩 山川出版社 1996

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