本牧の行政の歴史

歴史
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授業の歴史とかは苦手ですが・・・。本牧の歴史については、すごく興味があったので楽しく調べられました。近所の中図書館には、「郷土資料コーナー」がありまして、調べものには、とても重宝してます。では、本牧の行政のまとめをご覧ください。

本牧の行政の歴史

古代は、武蔵国久良郡「洲名(すな)」郷に含まれていたとの推測。

1192年 – 源頼朝の後家人、平子氏の支配を受け「平子郷」と呼ぶ。
その後、16世紀初頭に人が集住し(本目)村に成長。

1510年 – 小田原北条氏の支配下となり「平子郷」から「本牧郷」に。
対岸千葉の里見氏への防衛基地として(湊)の役割を担う。

1590年 – 豊臣秀吉に降伏し、間宮林蔵や杉田玄白と祖先を同じくする間宮直元が初代代官に就き、以後、四代続いた。


その後「本牧領」は、現在の中区、西区、南区、港南区、磯子区一帯の36ヶ村をさすようになる。
 本郷村、北方村、横浜村、中村、堀之内村、根岸村、戸部村、尾張屋新田
 滝頭村、磯子村、岡村、吉田新田、太田村、井戸谷村、蒔田村
 上大岡村、下大岡村、森公田村、森雑色村、森中原村、杉田村、中里村、矢部野村、峯村、栗木村、田中村
 雑色村、松本村、関村、最戸村、久保村、別所村、中里村、弘明寺村、永田村、引越村

1603年 – 徳川幕府成立後の100年程は直轄領のままだった。

1688年 – 元禄の国絵図には、本牧領「本牧本郷村」となっている。

1697年 – 元禄の「地方直し」により3人の領主が支配する三給に。

1843年 – 村高給808石余。364戸で村人口は、2000人超。
本牧六ヶ村(間門、牛込、原、宮原、箕輪、台)

1853年 – ペリーが浦賀に来航し本牧警備陣の再編成を行う。

1859年 – 横浜開港に備えて直管轄となり「外国奉行預地」になる。

1865年 – 「神奈川奉行所預り」として明治維新まで続く。

1868年 – 神奈川奉行所が「神奈川裁判所」となり、本牧そのものは久良岐郡「本牧本郷村」のまま。

1869年 – 神奈川県となる。(1871年に「廃藩置県」で統一国家へ)

1874年 – 大区・小区制度で本牧は「神奈川県第一大区五小区」に。

1878年 – 郡区編成法が実施され「横浜区」が誕生する。

1889年 – 市町村制が施行され「横浜区」から「横浜市」となる。
久良岐郡本牧本郷村と北方村が合併し「本牧村」が成立。

1901年 – 本牧村が横浜市に編入され、横浜市「本牧町」となる。

1927年 – 区制が施行され本牧町も「横浜市中区本牧町」となる。

1928年 – 本牧町から本郷町が独立。本牧本郷の本郷から名付けた。

1933年 – 町界町名整理を行い11の町となる。(旧字名)
・本郷町(字台山、上台、台)
・本牧町(字大鳥、箕輪、箕輪下、天徳寺、宮原、原)
・本牧十二天(字十二天)
・本牧元町(字牛込、八王子、八王子奥、)
・本牧大里町(大谷戸、下里)
・本牧三之谷(三之谷、真福寺、矢)
・間門町(二之谷、配郷、一之谷、向)
・本牧荒井(荒井、間門)
・本牧緑ヶ丘(長久保)
・本牧満坂(満坂、大久保)
・本牧和田(和田、池田)

1943年 – 中区から南区が分区

1944年 – 中区から西区が分区

1945年 – 敗戦により接収され町の中心地に間治外法権地域が存在。

1965年 – 海岸の埋立を開始し海にちなんだ新しい町が誕生する。
・千鳥町 (1965年 1月13日:石油会社の製油所)
・豊浦町 (1967年11月10日:工場地帯)
・錦町  (1967年11月10日:港湾関係住宅地)
・本牧ふ頭(1968年 8月31日:中小企業の集結地域)
・かもめ町(1969年 7月 1日:中小企業の集結地域)

1982年 – 接収地域の返還が決定される。

以 上

まとめると、こんな感じです。やっぱり、戦後の接収から返還までは(埋立してますが)時が止まっている感じがしました。

でも、良い意味での異国情緒は、こういう歴史から現在まで、引き継がれて魅力ある本牧が残っているんですね。

コメント

  1. 久良岐のよし 様

    詳細のコメントありがとうございました!昭和の読み物は、色々と間違った点があるんですね。久良岐のよし様のコメントを基に、今後修正を加えたいと思っております。今後とも宜しくお願いいたします。

  2. 久良岐のよし より:

    すみません、誤りがあるので指摘させてきただきます。
    先ず、昭和の読み物はデマと疑ってかかり調べた方が良いですよ。

    本牧領は戦国時代に小田原北条家の主力五部隊の一つ黄備隊の大将の北条綱成公の直轄領と与力武将達の所領が大部分を占めますが、江戸初期には伊奈忠次云々はデマです。
    本牧代官は所謂久良岐郡北部の代官職として存在し、間宮林蔵や杉田玄白と祖先を同じくする間宮直元が初代代官に就いており、以後、四代続きました。
    間宮直元公は徳川家康公の側室、於久の方の甥当たります。祖父の間宮康俊公は山中城で松田康長公とわずか兵300で豊臣軍本隊86000を迎撃し、豊臣軍死者3000の痛烈な被害を与えて玉砕した勇将です。尚、山中城守備の大将は本牧領主だった玉縄城主北条綱成公の孫の北条氏勝でしたが、彼は戦わずに自身の家臣団と大船玉縄城に逃げてしまいました。
    直元公は大坂城攻めの際に、豊臣軍が堤防を決壊させ市街地を水浸しにして長期戦にした際に、水抜き総堀埋め立てを立案直訴した軍師です。
    彼の役職は本牧代官兼務で初代但馬代官(生野銀山奉行)、大久保長安失脚後の二代目佐渡奉行所で元々築城に精通した玉縄衆な上に鉱山衆を従え大坂に参人した事が、兵庫県朝来市の郷土資料に記載されています。
    代官所は間宮家の邸宅で、磯子区洋光台1丁目の武内家の敷地でしたが、不見識な武内家の当代が土地を令和に入ってから売却し、名残はありません。
    磯子区の日蓮宗妙蓮寺には直元公を形どった御神像がありましたが、現代の先代住職の代に失火で燃やし消滅、更に奥さんが不見識で、直元公御妻女の墓も勝手に墓じまいしようとする始末です。
    杉田の妙法寺は分家杉田間宮家の歴代の立派な墓所を大切にしておられます。
    私は考古学の通説では久良岐郡の郡衙は国府瓦が出ただけで弘明寺としていますが、私は妙香寺山こそ郡衙だったのでは?と思っております。
    本牧は優良な湾と外洋に跨がる半島なだけでなく古来軍馬生産地でしたが、武蔵国の古墳時代から続く国府祭りでは古来神馬が奉納されていました。
    そして本牧は本郷牧場の略称と考えており、だいたい古墳時代の郡衙の置かれる場所は古代の海岸線の港湾を押さえる丘が多いからです。
    橘樹郡、三浦郡は正にそうです。
    弘法大師が護摩行を行った寺院や神社は彼から見ても古代の役所跡が多く、弘明寺もその一つでしたが妙香寺は日蓮聖人の滞在で改宗する以前は真言宗でしかも弘法大師の関与した寺院でした。
    よって地名、特産品の軍馬、港、妙香寺の寺伝の状況証拠から推察して久良岐郡の中心は古代は本牧、中村(丘の上の方)、弘明寺と変遷がありつつも、江戸期にまだ武士達は郡衙が本牧に有った事を知っていて、久良岐代官や間宮家の居城笹下城から笹下代官とも言わず、本牧代官として江戸幕府から久良岐郡の代官を任じたのだと個人的には推察しています。

    現代は何故か「洲乾港」と書かれる今の埋め立てらる前の馬車道沿いに有った横浜村の半島は、昔は宗閑港の字を当てたそうです。
    宗閑は間宮康俊公の父の信元公の法名で江戸期の弘明寺の扁額の寄贈者に宗閑と記されていました。
    その横浜村の地名初出が江戸期まで真言宗中本山だった南区堀之内の寶生寺の本尊修理の際に胎内から見つかった本牧代官間宮直元公の古文書でした。

    以上、長文失礼しました。

  3. 多分、小田原攻めの事だと思います。
    豊臣秀吉による天正18年(1590年)の小田原征伐
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%94%B0%E5%8E%9F%E5%BE%81%E4%BC%90

    今後とも宜しくお願い致します。コメントありがとうございました!

  4. ゆきの より:

    すぐのお返事、ありがとうございます。これを参考に、更に調べを進めたいと思います。本当にありがとうございました。

  5. こんにちは!参考資料は探してみます。
    ・伊奈忠次は、武蔵小室藩初代藩主(1590年 – 1610年)です。
    ・本牧領の36ケ村の詳細は、以下に掲載されています。

    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%B7%A8%E6%AD%A6%E8%94%B5%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98%E7%A8%BF

  6. ゆきの より:

    はじめまして。突然すみません。私は現在本牧の歴史について調べています。本牧に住んで居るため中図書館や中央図書館にも行きましたが、サイトにあった「1590年 – 豊臣秀吉に降伏し代官頭の伊奈熊蔵忠次が支配する。
    その後「本牧領」は、現在の中区、西区、南区、港南区
    磯子区一帯の36ヶ村をさすようになる。」という資料を見つけられません。何という資料からその記述を見つけたのですか。

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