「ザキ」と横浜市民から親しまれている伊勢佐木町(いせざきちょう)は、元町・横浜駅周辺とともに横浜を代表する繁華街である。その町名は1874(明治7)年に制定されたが、その由来は、神奈川奉行を勤めた依田伊勢守と佐々木信濃守の姓をとったからとか、明治初期にこの地域の開発に尽力した太田町の伊勢文蔵と桜木町の佐々木年次の名からとったといわれている。この一帯は1667(寛文7)年に吉田勘兵衛が開発した吉田新田の一部であった。この地域が市街化されるのは、1866(慶応2)年11月の豚屋火事によって全焼した港崎(みよざき)遊廓が移ってきて以降で、明治になって開発は進み、興業場や商店が相ついで建てられた。
伊勢佐木町やその周辺には、新派演劇の創始者で「オッペケペ節」で自由民権思想をうたいあげた川上音二郎が旗上げ公演を行った蔦座や、羽衣座・港座などの演劇場、1908(明治41)年開館で常設映画館の第1号の喜音満(きねま)館や、錦輝館・オデヲン座などの映画館が多数あった。オデヲン座は文字通りの洋画封切館で,東京からも多数の洋画ファンが押しかけたという。
イセザキモールの関内側入口前に吉田橋がある。橋とはいえ現在は川もなく高速道路が通っている。吉田橋は吉田新田と開港場を結ぶ橋で、1859(安政6)年にかけられた。攘夷熱の高まりの中で、不祥事をさけるため、1861(文久元)年ここに関門が設けられた。なお、関内(馬車道側)という呼び名もこの時以来である。交通量の増加でより丈夫な橋の架橋が要求され、イギリス人技師プラントン設計で、工費7000円をかけて幅9m、長さ24mの鉄製の橋を作り、1869年に完成した。わが国最初の鉄製の橋で、当時、横浜の人々は「かねの橋」と呼び、横浜名所の一つになった。その後、1911(明治44)年に鉄筋コンクリート製の橋になったが、昭和53年、かねの橋の欄干を復原した現在の川のない橋が作られた。
参考 神奈川県の歴史散歩 山川出版社 1996
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